1/January/2016
14/August/2015 このたび、2006年1月より約9年8ヶ月もの長きにわたり展開しておりましたブログ『日報・平方直樹』を2015年8月31日(月曜日)をもちまして、終了させていただくこととなりましたのでご案内申し上げます。

前述のとおり約9年8ヶ月もの長きにわたり展開しておりました本ブログではありますが、ソーシャルネットワーキングサービスを筆頭とするインターネット上の様々なサービスの急速な発展により当ブログは一定の役割を果たしたものと考え、終了するという判断をさせていただきました次第でございます。

長期間にわたりご愛顧頂きました閲覧者のみなさまには、これまでの御礼を申し上げるとともに、今後につきましてはtwitter、facebook、Amazon.co.jpブックレビュー等にて逐一発信してまいりますので何卒よろしくお願いいたします。

国語入試問題必勝法 / 清水義範
★★★★★
今さら言うまでも無い著者の代表的短編集

『猿蟹合戦とは何か』
猿蟹合戦に込められた真意やメタファーについて旧仮名遣い+新字体という謎様式にて展開されている一作。あくまでコメディなので本気に取る必要はなく、論理も必ずしも絶対的なものではないのだが、強ち間違いでもないものとなっている。

『国語入試問題必勝法』
作者の代表作と言っても過言ではない表題作。
国語(現代文)の長文問題に手こずる受験生の浅香一郎は、父親が探してきた月坂という家庭教師から問題の解き方を教わるという話。
前章『猿蟹合戦とは何か』における意味不明な詩を題材とした問題に意味不明な解答と解説がつくくだり同様、現代文の問題として出題される皆目意味不明な長文の数々(これに値段とISBNコードが付いて書店に並んでいると思うと反吐が出ると同時に、下半分がスッカスカかつ擬音だらけの三流ライトノベルのほうがまだ分かりやすい)と、出題された問題の解き方を大胆かつコミカルに説いている。さすがに『色々あった。』はやり過ぎだが、『大、小、展、外、誤』、『長短除外の法則』そして『正論除外の法則』は自身の経験則から見ても納得のいくものである。

『時代食堂の特別料理』
偶然、商業地とはほど遠い寂れた場所で営業している「時代食堂」を見つけてから休みの日ごとに足繁く通うようになった福永信行。「時代食堂」で出される「特別料理」は決して豪華ではなく、むしろチープさのほうが強く、「料理」と言うよりも「食べ物」というニュアンスのほうが近いが、どういうわけか「特別料理」を食すことにより自分自身の過去を追体験することができ……というおはなし。
特筆すべきは、主人公である福永信行が追体験する、小学校3年生の時の運動会の徒競走で2位になり、母や就学前の弟と一緒に弁当を広げたり、地元の大学に進んだ自分と地元の会社に就職した恋人そして進学のため上京した同級生との関係性のエピソードのみならず、それと交互する形で他の客である自分よりも年上の中年男性や社会的地位がありそうな恰幅の良い紳士そしてメディアで見かける料理評論家を描くことで、主観と俯瞰をうまく取り混ぜている。

『靄の中の終章』
隠居の身となり、息子夫婦と暮らす沼田常雄。朝食を摂ったことを忘れたり、息子の嫁の名前を忘れるなどといった症状により認知症を発症し、徐々にそれが進行するさまを沼田常雄自身の視点で描いている。
「認知症もの」においては通常家族のような身近な存在の視点により「認知症を患った老人」というブラックボックス的存在に振り回されるさまが描かれることが多いが、耄碌しているにもかかわらず、様々な詭弁によりそれを認めようとしない一方で、話が進むに従って症状が進行し、ついには自我を喪失する姿を描ききっている。

『ブガロンチョのルノワール風マルケロ酒煮』
本作は料理に関する古今東西の蘊蓄を織り交ぜながら、「ブガロンチョのルノワール風マルケロ酒煮」「水晶魚の冷製」「野原のサラダ」の三品を調理していく話だが、料理に関する蘊蓄や原材料含め、すべてがフィクションでありながら、これらの料理がさもありなんと錯覚させられるさまに、完成度の高い小説は得てしてフィクションでありながら読者にあたかも物語が事実であるかのように錯覚させられる事実を改めて思い知らされる。

『いわゆるひとつのトータル的な長嶋節』
これは野球選手や監督としての長嶋茂雄ではなく、第一次長嶋政権後に解説やオリンピックの取材をしていた頃(セコムや住友VISAのCMが流れていたのもこの頃だったはず)の長嶋茂雄にフォーカスした話であり、最初はプロ野球解説における長嶋の言葉は非論理的で何を言っているのかよく分からないように見えて実は舌足らずなのではなく、伝えんとする内容があまりに高度すぎ、彼の中では完璧な答えがあるにもかかわらず、言葉がそれについていないからだと主張しており、確かに後年の第二次政権時において毎日のように松井秀喜に付きっきりになってバッティング指導を行ない、彼をジャイアンツにのみならずヤンキースの絶対的な四番打者に育て上げたことを鑑みれば、その主張は決して間違ってはいないだろう。
だがこのくだりはこの話の本質ではなく、長嶋茂雄と村山実の解説の対比あたりから話が進むにつれて「もしも長嶋茂雄が○○だったら」になり、さらには他の解説者やプロ野球選手だったら――とおかしな方向へと彷徨する展開の部分であり、レビューで糞真面目に長嶋茂雄論をぶつけられるのは作者にとって不本意この上ない行為であるはずだ。

『人間の風景』
生活のために官能小説を書いている作家・佐伯義成は妻の祖母からの依頼により、老人会に属する六十代の『若手』四人が書いたリレー小説の添削を頼まれ、それに目を通すことになったがその中身が一筋縄にはいかない内容で……という話。
「人間の風景」という、人間が登場するほぼすべての物語で使えそうなタイトル(思いつく限りにおいて使えないのは「愛はさだめ、さだめは死」「銀牙 -流れ星 銀-」ぐらいしか思い浮かばない)、肝心の文章は一人称だか三人称だかはっきりしなかったり、書き手の感想が大部分を占めたり、点呼の番号や野菜の名前による行数稼ぎだったり、三人目で主人公が殺されて犯人が捕まってしまったり、含蓄に見えて実は中身がスッカスカだったりと突っ込みどころ満載な文章が展開されており、プロの作家がここまで書くのは却って難しかろうと思ってしまうほどである。

魔導書作家になろう!3 >それでもみんなで世界を救いますか?(はい/いいえ) / 岬鷺宮
★★★★★
作家・勇者・魔王・絵師・校閲そしてすべての人々が世界を救う

「魔導書」の登場により誰でも本のとおりに詠唱すれば「魔術」が使えるようになり、戦いや日常生活で広く活用されている世界を舞台に、魔道書作家として活動するアジロ・コントグルーと彼を担当する編集者ルビ・メルクーリが二人三脚で魔道書づくりをしていく物語。
最終巻である本巻は、『終わりの始まり』とも言える世界各地で大きさも属性も強さもバラバラなモンスターの発生(ポップ)頻度が加速しつつある状況を背景に、世界の崩壊を食い止めるべくアジロと彼の仕事仲間たちとともに奔走する姿を描いています。

『海辺の街を守れ! 誰でも使えるお手軽防衛魔術!』
街の三方を取り囲む外壁と用心棒として雇われた冒険者たちによって辛うじてモンスターから守られている海辺の街『パトモス』(モデルはおそらく三方を山、残りは海に面した鎌倉や長崎のような街だろう)にやって来たアジロとルビ。
強力な魔術や腕っ節の強い用心棒に頼ることなく、(あまり強い力を持たない)住民たちの手だけで街を守る術がないものかと思案するアジロだったが、悪酔いしたルビの介抱で何かを思いついたみたいで……というのが簡単なあらすじ。おそらく解決策は『ユピテル出版』から見える『巨大な卵』から気付きを得たのかも知れません。

『正体不明の敵を倒せ! 弱点狙いの攻撃魔術!』
前巻や前章で触れられていたモンスターの異常発生(ポップ)の原因が神にも近い存在である太古の精霊『タナトス』による人類粛清の一環によるものではないかという元魔王・クルミの推察により、その真意を確かめるべく『タナトス』がいる異世界との接点であるクルミのかつての居城へと向かうこととなったアジロ、ルビ、クルミ、ネイムそしてクーチェの五人。ところが何者かによる魔術障壁により転移魔術による祭壇への到達はかなわず城の前で足止めされただけではなく、未知のモンスターたちによって行く手を阻まれてしまい……というストーリー。前章がディフェンスの話である一方、本章はオフェンスに重きを置いた話になっているものの、圧倒的に強く、如何なる攻撃も効かない相手に対し、アジロの知識と知恵が窮地を救うという一種のカタルシスを得ることができるおはなしとなっています。

『「彼女」に追いつけ! 並び立つための勇気の魔術』
アジロの機転により無事門番(ガーディアン)を倒したものの、召喚した『タナトス』から予想どおりの答えが返って来ると同時に、魔術の多用による精霊への負担の軽減という五年前の約束(詳細は前巻を参照のこと)が及第点に達していないという理由で人類滅亡へのカウントダウンを開始するが、アジロの説得により彼自身が『タナトス』によって憑依されたクルミと一人で戦うことになり……というおはなし。
『タナトス』が主張する論理はおそらくTEDにおけるデイム・エレン・マッカーサーのプレゼンテーションが元ネタであり、かつ省エネやリサイクルが焼け石に水になるほどの消費社会を形成している人類へのアイロニーなのでしょう。そして「彼女」が何を意味するかは是非本文で。

『作りあげろ! 世界を救う、皆の魔道書』
クルミに憑依した『プネウマ』に辛勝したアジロは『プネウマ』により、人類滅亡に向かって時限爆弾よろしく世界のあちこちで動き始めた五千ものの『終わりの時計』をすべて解除すれば滅亡が回避できるというチャンスを与えられるが、それは二十三時間十七分以内に解除魔術を組むばかりでなく、それを印刷、流通し、かつそれを世界中の人々が詠唱することによって一つ残らず解除させるという、限りなく無謀に近い挑戦だった……というおはなし。
自分に自分は一人ではないと体を張って証明したアジロのためにあるひとつの決断をするルビの姿と、その後に取った行動が一見唐突に見えて実は理に適ったものであることが良く分かります。

『世界を救え! 未来を切り開く、人類の魔術』
世界の人々に向かって勇者と魔王の戦いの真実そして人類滅亡の危機を語るルビそして世界のいたる場所でそのメッセージを受け取りつつ、ルビ自らによる発信そして『終わりの時計』の存在によりそれが事実であることを知る世界の人々のようすを交互に描くことにより、地域や種族を超えて皆で力を合わせて危機に立ち向かう、性善説のもとで動く優しい世界であることを表現している。
細かい話で申し訳ないが、惜しむらくはアジロ視点で話が展開しているにもかかわらず、疎遠になった郷里に仕掛けられた時計を確認するべく訪れた実家でのシーンにおいて二人の兄を「長男」「次男」としたことに不自然を覚えた部分だろう(名前の設定がなかったとしてもうまく切り抜ける表現方法はあったはずだ)。

氷菓(9)(コミックス版) / 米澤穂信・タスクオーナ
★★★★★
安楽椅子探偵として『十文字事件』に取り組み始める奉太郎そして狙われる古典部を描いた第9巻

『十文字事件』最後のターゲットが古典部であると確信し、閑古鳥が鳴いていた状態から一転して衆人環境と化した部室で『犯人』との邂逅に備える奉太郎、自分自身の限界を覚えつつも、自分が何に長けているのかそして自身を完全とは言えないまでも懸命に自分のことを理解しようとしている摩耶花に対する考えが変わろうとしている里志、『氷菓』を売るためとはいえ慣れない行動を取ったことを入須冬実に指摘され、自分は自分の心に素直になれば良いと再認識したえる、そして自分の正しさを証明しようとしたために、はからずとも河内先輩に残酷な現実を突きつけてしまった摩耶花を、ある意味において小説以上に丁寧に描いています。
おそらく次巻で『クドリャフカの順番』編は終わりになるかと思いますが、古典部から校了原稿が失われた真相そしてすべての話が落ちゲーのコンボのように繋がるさまをどう描くかが楽しみであります。

学校では教えてくれない日本文学史 / 清水義範
★★★★★
日本文学の本質のみならず、日本人が読むべき本を提示している一冊

初期に書いていたSci-Fiものや代名詞となったコメディ色の強いパスティーシュ作品および『名古屋もの』の第一人者として蓄積してきたであろう知識や情報の数々を様々なテーマごとにアウトプットしている著作の一つで、本作は、実際に読んだことがなかったり、教科書で軽く触れた程度でしか接したことがないような日本文学を『古事記』から現代の文学に至るまでを、その作品が生まれた背景や存在する意味や意義そして転換点となった作品を含めて噛み砕いて紹介し、かつそして現代性な喩えを利用しながら解説している。

『源氏物語』の作者とされる紫式部は、物語上で登場人物たちが歌を交わすシーン、特に歌の内容を通じて、現代の小説でも必要不可欠な『キャラ立ち』を確立させる一方、現代におけるメールのやりとりに喩えてみたり(奇しくもSMSやtwitterは140文字以内という規制が歌詠みと見事に合致している)、『平家物語』の項では、同時代において同作を『夜の源平合戦』としてパロディ化させた『壇ノ浦夜合戦記』を、また、『源氏物語』に対する『好色一代男』を取り上げることにより、『「平家物語」が広く読まれているから、建礼門院と義経が壇ノ浦で……、というエロ話が成り立つのである』と解説することにより、原作という元ネタを知っているというコモンセンスがあってこそのパロディであるという理解を得ることができる(本文では言及されていないが、H.P.ラヴクラフトのクトゥルフ神話の知識を前提に『這いよれ!ニャル子さん』が、サブカルチャーへの知識ありきで『らき★すた』を楽しむのと同じ論理である)。

また、『土佐日記』や『奥の細道』といった紀行文が訪れた土地土地を虚実入り交えてディスっていることに着目し、(正確には紀行文ではないが)夏目漱石『坊ちゃん』でも鎌倉よりも遠くに行ったことがない主人公が赴任先の四国の中学や町に良い印象を抱かないという描写に、紀行文のディスり具合と重ね合わせるさまに、現在においても主人公が訪れた先で散々な目に遭う小説や『水曜どうでしょう』に代表されるような、出演者が酷い(裏を返せば美味しい)目に遭うTV番組を連想することができ、江戸時代、蔦屋重三郎が立ち上げた版元より次々と黄表紙や洒落本を出すさまは現代における漫画やライトノベルに通ずるものがある上、自ら挿絵を描いた『東海道中膝栗毛』の十返舎一九に至っては(同じく自らイラストを描いた)『ノーゲーム・ノーライフ』の榎宮祐を連想することができる。

つまり、現代の日本で発売されている本の類いもまた、大なり小なりここに取り上げられたマスターピースの影響を受けていることがよく分かる。

さらには、他の明治の文豪と異なり、夏目漱石の文章はどうして小学生が読めるほど平易なのかというくだりにおいて、作者は英文学の影響を理由の一つとして挙げており、自身の経験からも、また『理科系の作文技術(木下是雄著)』でも挙げられていることだが、漱石の文章は全てを読まなければ内容を理解できない文章ではなく、自分が読んでいる時点までに書かれた内容を理解できるような文章であり、当時の文豪が書いていた、現代の人たちが読んだらまどろっこしく感じるそれとは一線を画すものであったことを適切に解説している。

最後の二つの章において、自然主義や白樺派という純文学のルーツを取り上げつつ、戦後の文学シーンにおいて石原慎太郎が『太陽の季節』で今で言うメディアミックスの先駆けのようなことを始めたり、推理小説(探偵小説)が松本清張の登場以降からハウダニットからホワイダニットにシフトしていく(もっとも、ハウダニットの要である詭計のパターンが枯渇してしまったという背景はあるかも知れないが)姿を提示している。

個人的な感想を言わせてもらえれば、本作には取り上げられていないライトノベルを作者がどう評価するのかが気になるところだ。元ネタのコモンセンスがマスターピースではなく週刊少年ジャンプになってしまったと嘆くのか、それともエンタテインメントの一種の進化と捉えるのか、是非その意見を聞いてみたいところだ。

多摩湖さんと黄鶏君 / 入間人間
★★★★☆
潜在・顕在問わぬ男子中高生の願望とカタルシスを得んとする一冊

知り合って6年、付き合い始めて2ヶ月の黄鶏君(『電波女と青春男』の丹羽真と同じ学校・学年だが別のクラスであるため、広義的な意味で同作のスピンオフとも言えよう。参照:同作第4巻・第6巻)と、彼より2歳年上にもかかわらず高校一年生を3回留年して下級生になってしまった多摩湖さんのふたりが、学校、黄鶏君の自宅そして海沿いの旅館で多少のアレンジを施したクラシカルなカードゲームに興じるだけのおはなし。逆に言えばそれだけの話であるが、すてきなおねえさんと前頭葉をすっ飛ばしたかのような睦みあいが、自意識過剰と接点の無さと顔面偏差値の低さ(失敬!)という現実的な理由によりそれもままならないという十代男子に対しカタルシスをもたらすこと請け合いであることは確かだ。

電波女と青春男SF(すこしふしぎ)版 / 入間人間
★★★★☆
三人称、スガシカオ略してスシオ、岡嶋二人と米澤穂信、タイム・シップそしてヘルメッター1号・2号・3号

基本的には本編序盤のリメイク。内容は悪くない。しかしながら(アニメーション等のマーチャンダイジングの影響が考えられるとはいえ)これを書くくらいなら本編の謎や伏線を回収してから終わらせろと言いたいどころか、パラレルワールドのねじれなのか幽体離脱なのかという新たな謎を提示しないでくれとも言いたいところだが、それではレビューにならないので以下に記述しておく。
従妹・藤和エリオとの邂逅と『宇宙人設定』の寛解という意味では同じストーリーであると言えるが、最も大きな違いは、本編が丹羽真視点の一人称である一方、本作は丹羽真寄りの三人称で描かれていること(他者の心情がブラックボックスになっているため完全な三人称ではない。三人称の理由は本作で)だが、それ以外にもこれまで丹羽家は同じところに一年もいない転勤族だったり、中学の同級生だった星中小海が転校前の高校の同級生で今でもポイント加減のアドヴァイザーとして連絡を取り合うような間柄(国内外を飛び回る転勤族という背景から本作では中学は同じではなかったものと推察される)だったり、藤和女々・エリオ親子の距離感が異なっていたり、藤和エリオとの関係性を教室内で噂されて孤立を深めたり、はたまた本編ではぼんやりさせていた実在の名称が出てくるなど、パラレルワールド的なストーリーが展開されつつも話の大まかな流れは変わらないことから、『ドラ○もん』第1巻第1話の『たとえば、きみが大阪へ行くとする。(中略)どれを選んでも、方角さえ正しければ大阪へ着けるんだ』という喩えを本作であらわしたものと考えられる。

電波女と青春男8 / 入間人間
★★★★☆
リトルスマキンとの邂逅、リトルスマキンとの特訓(?)、リトルスマキンとのI can't flyそしてEnding No.1に向かって――

前巻のエピローグ『Next Chapter 空想、襲来』で予告されていた、布団を簀巻きにした藤和エリオを三分の二程度のサイズにしたような『リトルスマキン』によって真をはじめとした主たる登場人物が引っかき回されるさまを描きつつも、それを通じて藤和エリオにひとつのきっかけが訪れるさまを描いた最終巻。
しかしながら今後の彼等がどうなるのかは勿論のこと、結局藤和エリオが失踪した半年間が何だったのか。自称宇宙人兼超能力者・星宮社の出自と夏祭りの夜の隕石、両親の店の名前と同じとされる前川さんのファーストネームといった謎が謎のまま、そしてそれとなく示唆されている藤和エリオのこれからが主たる登場人物が繰り広げるモラトリアムによって掻き消されてしまったのは少々残念なところ。作中において、全8巻で丹羽真が田舎から都会にやって来た春から秋にかけた僅か半年程度の時間しか流れていないため、急激なストーリー展開は難しいと思われるものの、それでもその後どうなったかの判断を読者に委ねるという意図を差し引いても真、流子、前川さんが二年生を終わらせ、謎についてもある程度明確にするくらいの終わらせ方をして欲しかった。

電波女と青春男7 / 入間人間
★★★★★
原付、二度と観ることができない映画、曾孫、実物大UFOキャッチャー、宇宙船そして携帯電話(新規)

本巻は文化祭が終わってから三週間が経過した十月半ば。藤和エリオが知らないおっさん(おそらく山本さんこと安代氏と推測される)から貰ったという謎のゲームソフトをプレイするという体で、もし丹羽真がそれぞれの女性キャラクターと結ばれていたら――というストーリー(と言う名の妄想)を各キャラクターごとに描いた短編集プラスアルファ。

『Ending No.4 丹羽さん』
トップバッターは前川さんと結ばれた世界。
前川さんと青春ポイントが吹っ飛ぶほどにロベロベ(参照:第5巻)になる一方、御船流子と疎遠になり、藤和エリオ・女々と同居しながら乖離しつつある現状をうまく描いていると同時に、丹羽真視点で展開される話でありながら、自分自身が二人以外の主たる登場人物との人間関係が破綻してしまった原因となってしまったことに前川さんが申し訳なさを覚えていることを暗喩させている。
それに、夏休みにエロ本買っていたことはバレていたのね。
ところで、シロクマの着ぐるみ姿で原付に乗ることは道路交通法に引っかかるのだろうか。

『Ending No.3 幸せのはんぶんこ』
高校三年時の文化祭で告白し、交際を始めてから半年。大学生になった真と流子がかつて過ごした街でデートをするとある初夏の一日を描いたおはなし。映画本編を眺めながら、高校時代の日々はある意味において完結してしまった、もう二度と観ることができない映画という喩えは言い得て妙だ。

『Ending No.2 宇宙人の見守る町、の地球人』
あれから何十年もの時が流れ、すっかり年老いた真とエリオが、曾孫とともに海へ宇宙人探しと言う名のピクニックに出かける一部始終を描いたおはなし。
自転車で空を飛び、スポーツチャンバラで戦ったかつての自分自身とオーバーラップさせつつ、永遠に変わらないと思っていた日々がいつの間にか何もかもが変わってしまった切なさを綺麗に描いている。
エリオを選んだ未来では御船流子や前川さんとも良好な関係を続けてきたことが示唆されていることから、これがおそらくこの中ではベストなエンディングなのだろう。

『Bad Ending No.1 電波男』
藤和エリオと間違われ、非常にフランクな宇宙人によってUFOからキャッチされてしまった丹羽真。自分自身が置かれている状況から自分自身が宇宙空間に浮かぶUFOの中で全体的に水色かかった宇宙人と邂逅していることを確信するが――というおはなし。一体どのようなバッド・エンディングが展開されるかは言わずもがなかと。

『Ending No.2559 宇宙服は蚕の夢を見る』
西暦2559年。子供の頃の約束を果たすべく、丹羽真の子孫であるマコトは研究所(500年以上前に御船流子がジェフ(仮名)とともに闖入した研究所と思われる)でヤシロ(星宮社であることが暗喩されている)とともに地球初の恒星間航行する宇宙船を開発し、従妹であり藤和エリオの子孫であるガーティ(これで今更ながらエリオットが映画『E.T.』の主人公の少年の名が由来であり、映画『ミスター・ベースボール』でヤンキースから中日に移籍した主人公ジャック・エリオット(演:トム・セレック)ではないことに気付く)が副船長として地球の時間で何十年にもわたる探索に旅立つさまと、自分が開発した宇宙船発射の中継ではなく、かつて二人で遊んだ静態保存されたロケットを眺めるさまを通じ、もしかしたら今生の別れになるかもしれない切なさと寂寥の感をうまく描いている。

『Ending No.5 女々たんと一緒』
こちらはタイトルでも推察できるとおり藤和女々エンディングを描いた掌編。エリオが大きくなったり小さくなったりすること以外はある意味において普段どおりかと。

『Chapter7 せーしゅん女(初心者)の休日』
話の内容としては、藤和エリオの携帯電話を購入し、その翌日に真、エリオ、流子、前川さんの四人でカラオケに行くという、一見すると何の変哲もない(ただし前川さんは某地球外生物のコスプレ姿である)ものだが、広義的な(強烈な個性という)意味において『宇宙人』である4人(真は自身を『地球人』と思っているが、モブたちにはエリオとの関係性や"I can't fly"などから『宇宙人』と見做されていることが暗喩されている)がともにすることがある意味において奇跡であるということを表現している。

『Next Chapter 空想、襲来』
そしてここに来て本作初の『次回予告』。田村商店で他愛もない話に興じていたエリオ、真、田村のばあさんの目の前に現れたミニタイプのアイツは一体何者なのか。それは次回のおはなしということで。

電波女と青春男6 / 入間人間
★★★★★
文化祭、似顔絵、ポーカー、たこ焼き、糸そしてコンサート

夏休みが明けて2学期に入り、真たちが通う高校で開催される文化祭の一日が群像劇スタイル――すなわち、(短編集で構成されていた第4巻を除き)本編では初めて、丹羽真を含めた、彼以外の人物の視点で描かれているのみならず、著者の他作品とのクロスオーバーが展開されている。

これは本巻に限った話ではないが、良い意味でも悪い意味でも作品世界におけるサイレント・マジョリティの代表役であるミッキーを登場させ、彼女の御船流子に対する『善意の同調圧力』や『今のところは友達』という彼女たちの思考を吐き出せることにより、発言を通じて無意識に『これ以上藤和エリオに近づくとつまはじきにするぞ』と警告する姿に、校内におけるヒエラルキーの象徴であるスクールカーストや、『絆』『仲間意識』を大切にしつつもその枠から外れている人や物にはまったく関心を持たないマイルドヤンキーと呼ばれる集団が形成されていく過程の一部を見たと感じたのは考えすぎだろうか。

その一方、いずれはこの街を去るであろう丹羽真にその『脅し』が効かず、それどころか自分がエリオの側についていることを暗喩させる姿に、表向きは『やれやれ系主人公』を演じながらも実は芯の強い人物であることそして(丹羽真自身は『冗談じゃない』と否定するだろうが)広義的な意味で主たる登場人物すべてが実は『(マジョリティとコモンセンスを共有しない)宇宙人』であり、ミッキーたちのようなモブが『(マジョリティたる)地球人』であることを示唆しているのが分かる。

そして本巻がなぜ様々な登場人物の視点で描かれているのか、また、登場人物たちの過去を描いた第4巻の短編の数々が力点となり、時間と距離を超えて思わぬ作用を生み出すさまや、不完全燃焼のまま自主退学せざるを得なかった藤和エリオに一種の救いがあったことは、前巻の三段オチを彷彿とさせる程良い(あくまで程良い)清涼感を与えてくれた。

電波女と青春男5 / 入間人間
★★★★★
夏休み終盤、海、ワニ、サファ男そしてスポーツチャンバラ

夏休みも終盤に入った8月下旬。町会主催で行なわれる一泊二日の小旅行に参加することとなった丹羽真、藤和女々・エリオ母子、前川さん一家そして御船流子。第5巻は、第3巻で展開されていた『野球回』と双璧を為すシリーズもの独特の『お約束』となっている『水着回』となっており、キャッキャウフフな展開のみならず、互いを嫌悪こそしていないが苦手としているエリオと流子、俯瞰を決め込むもいざ当事者になると戸惑いを隠そうとしない前川さんという図式はもちろんのこと、御船流子や前川さんで蓄積した青春ポイントを藤和女々がごっそり削り取っていく――あるいは削り取られた青春ポイントを取り返すという、第1巻〜第3巻で形成されたテンプレートを見せてくれる。
後半は、誘われるがまま参加することとなった、勘違い地球防衛軍vs観光エイリアン(という体)にチーム分けされて行なわれたスポーツチャンバラの一部始終が描かれており、ベタベタな『日常生活の中における非日常的バトル展開』に終始すると思いきや、最後の最後で見せつけてくれた、伏線の回収を含めた読み手の想像を超えるオチの3段コンボはお見事。


(c)MMVI-MMXVI Naoki Hirakata/O.K./Kitahara Narratology Institute